とてもかなわない
栃折久美子


本好きな人は自分で本をつくってみたい欲球にかられるのではないか。針と糸、ノリなど家庭にあるもので全部自前でつくれるんですね、これが。試しにお気に入りの文庫本を装丁してみるという楽しみ方もあります、中味はそのままで表紙を変えるわけですがこれだとかがりがないから比較的ラクにできます。もちろん一点主義、大量生産はできません。
〈池袋にルリュール教室があります、横浜にはないようですが。栃折の本を読んでいると製本ブームだということばがでてくるが現在はどうなんだろうか、カルチャースクールのどこを探しても池袋・水道橋以外に「製本」はない。もちろん横浜近辺の話ですが。〉
リサイクル書店に100円均一のコーナが大量にあるけれど装丁(製本も含めて)の眼だけでみるとタメイキがでますね、手作業で単行本を一冊作るのにどれだけの労力がかかるものか。
本は読むこと以外に―蒐集は別にして―これといって役にはたたないから中味がつまらなければ、または読者にあきられてしまえばそれまでなのだろうけれど、見た目には立派な本が大量に叩き売り状態の光景を目の当たりにするとなにやら複雑な心境。
余計なことですがハウ・ツーものって本当に多いんだ、すごい量です。賞味期限のついた本なんだね、これは。
〈映画館に二番館とか三番館とかありましたがあれに倣ってリサイクル書店を本(書店)の二番館だといった方がいましたが言い得て妙だと思いました、CDやビデオ、DVDソフトと商品の幅は広がっていますが。本やソフトを鮮度で量るマーケットですね。〉
懐古趣味でもなく手作りへの誘いでもなく栃折が根っこのところで探ろうとしていること、「人間にとって本とはなにか」。
この問いかけにたいしてどう答えたらよいのだろうか。
ぼくはそうした問いかけができるだけで凄いと単純に唸ってしまう。栃折が警鐘を鳴らしてきた時代からさらに激しく本は読みにくくなってきたし読みやすくなってきた。文庫・新書、そして雑誌がすごい量です、無線綴じの天下。
単行本もこれと同じ。あふれるばかりのハウ・ツーものは本が大衆というやつを捉え商品カタログ化した断面を映し出しているのだろうか、消耗品というと言い過ぎかもしれないがその種の便利本がいかに多くてもやはり一方では〈これが本だ〉という正統派が真ん中にドンと正座していて欲しいもの。それにふさわしい内容をもっていなければならないことはもちろんですが。
ただし文庫・新書が手軽だからといってこれはという本も結構あるようですから油断は禁物、たとえば読書家はとっくにご存知でしょうが中公文庫にリストされていたもののなかには貴重な本が入っています、残念ながら多くはすでに絶版のようですが(出久根達郎『古本法楽』中公文庫 参照)。
〈週刊誌サイズなどの雑誌は中綴じです、念のため。〉
冒頭にあげた『装丁ノート』はホントに姿の良い本です。読みやすくてスッキリしていて、復刊を望みたいくらい。長く残したい本の一冊だと思う。
〈古書店で千円前後で買えるなんてウソみたい。とはいえ、なかなかお目にかかりません。図書館には大体あります。〉
栃折の後を受け装丁に関してウルサイ批評家がでてほしいものだと思う、表紙がソリ返っている本、背が3センチ程もある厚い本を無線とじにして平気な神経(両手でないと開けられやしない)、デザイン過剰じゃないのかと首を傾げたくなる本、陽のあたらない良書も含め、読みやすく丈夫に美しくできているかの目で捉えるプロはいるはず、良いもの悪いもの、こうすべきだというクリティカルな声は生きのびてほしい。話題の本に目がいくのは当然だけれどこれだけ出版される量が多いとコントンとしてきますね、読者としては。
〈栃折は装丁批評を一時発信していた、一つだけいい例で紹介すると『お楽しみはこれからだ』(和田誠 文藝春秋)は、良い感じの本、「内容によく合った簡素で機能的なデザインが良い。とびらは本文共紙。」と書いている。〉
最近の本だと『ロワールの贈り物』(清宮伸子 沖積舎)も読ませます、フランスで製本工芸(ルリュール)を学んだドキュメントです。ルリュールはフランスの工芸技術でそのための国立学校もあるという。著者は自宅を改装して工房を開いていたがマーケットが小さかったのだろうか今はフランスに移り仕事を受けているという。