このあたりの小説やドラマにはなんとも捉えにくい、分析したり無理に括ってしまうとこぼれ落ちてしまう)X
があるんじゃないだろうか、主人公たちが生身の成長途上の存在だけになにかがプラスされるのだろうか。
黒澤の「夢」(「桃畑」)にも少年のゆらぎを捉えたストップモーションがありました、思い起こされます。あのショットにこわれないように手のひらでそっとすくいあげるような、恐れ、優しみ、哀しさ、祈り、もどかしさのようなものを感じませんか。
天藤真の登場人物には少年・少女のようなピュアな息づかい、心意気を感じさせる、たとえ主人公が成熟した大人であっても。
これはきわめて個人的な興味なのだけれど、うつろいの状態、混然としていて、型が定まらない未分化の時期に関心が向く。ぼくが入門段階で足踏みしてしまい基本問題ばかりにこだわってしまうのもそのせいか、細分化され決まってしまうと魅力が減るように感じてしまう。 人物だと追いやすいですね、時系列で変わっていく姿を追えます。高峰秀子「綴方教室」から「馬」(山本嘉次郎)の少女、「或る夜の殿様」(東宝 昭和21年 衣笠貞之助)のお嬢さんを経て「雁」(大映 昭和28年 豊田四郎)のおんなというように。
蛇足ですがカラッと乾いたまなざしといえば高峰秀子の『人情話松太郎』(潮出版社・文春文庫)『巴里ひとりある記』(*映画世界社)などにも同じ資質を感じるがどうだろう。『台所のオーケストラ』(文春文庫)などあっさりしている、塩小さじ一杯とか細かいこと言わないであとは作り手の問題とばかり距離をおいている。おおらか、大人なんだね。
天藤真についての人となりについてぼくはほとんどまったく知らない。エッセイや評論の類はあるのだろうか。教えを乞いたいものです。
愛すべき主人公たちといえば映画や小説に自分自身を投影させていっしょに成長していくというか時代を呼吸していくという型がある、先にあげた「キューポラのある街」のジュン(吉永小百合)や「シャボン玉」の植木・谷・青島(関西の平三平とか大村昆、ルーキー新一、「スチャラカ社員」の人見きよし、「てなもんや三度笠」の財津一郎も忘れられない)は強烈でしたが70年代のテレビドラマも見逃せない。
なかでもぼくにとっては昭和50(1975)年。
「前略おふくろ様」がスタートした年。高度成長のピークを過ぎて73年の暮れにオイルショツクに見舞われマイナス成長が見えはじめてきた頃にあたる。ぼくの青春の時代も終幕を意識せざるをえないというイヤーナ感じの時代でしたがこのドラマに共感の二文字を重ねながらそんな想いを噛みしめていたことを想いだす。
〈1975年はベトナム戦争終結の年。戦後初のマイナス成長となり景気は急速に落ち込んだ。黒澤の「デルス・ウザーラ」が公開され栃折の最初の本『モロッコ革の本』が出版され、そして高峰が「週刊朝日」に「女優・高峰秀子の30年 わたしの渡世日記」を綴り始めた年でもある。〉
しかし、面白かったですね「前略おふくろ様」。 この時代を精一杯呼吸できたのではないかと思えるほどの魅力に満ちていました、老人問題を見据えながら〈誰にも青春があった〉ことを抉りだすドラマと、ぼくはワクワクしながら見ていたのだけれど。ズッコケ集団ドラマでもありました。
想い起こしながらその世界をのぞいてみよう。
2
