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『キネマ旬報』の昭和37年1月(NO.302)の号に黒澤の「椿三十郎」と木下恵介「今年の恋」のシナリオが掲載されている。グラビアの頁に〈「女の座」の成瀬組〉の写真がある(主演は高峰秀子)、照明の石井長四郎の顔が見える、もちろん監督の成瀬、主演の高峰も。 隣の頁は木下組の写真(木下がおしゃれにキメている)、さらに吉村公三郎「家庭の事情」、マキノ雅弘「東海道のつむじ風」の正月映画の撮影スナップが続き、広告には川島雄三「雁の寺」、J・フォード「荒野の決斗」がある。
 昭和37(1962)年といえば映画産業はピークを過ぎ下降線をたどっていた時代だが今から思えば番組が充実しているようにみえる、凄いメンバーですよね。 封切りのスケジュールをみると正月3日からは次の通り。
〈映画のピークは昭和33(1958)年(「隠し砦の三悪人」「張り込み」「炎上」公開の年)だという。年間で一人毎月一本づつ映画を見に行った勘定に、昭和40年になるとそれが年3回に減ってくるという。〉
東宝「椿三十郎」「サラリーマン清水港」
松竹「にっぽんのお婆あちゃん」「千客万来」
大映「女と三悪人」「家庭の事情」
東映「天下の御意見番」「東海道のつむじ風」
日活「メキシコ無宿」「渡り鳥北へ帰る」、
さらに 有楽座では大作「釈迦」 丸の内ピカデリーでは「ウエスト・サイド物語」がかかっている。

昭和37年の次をたどろう。
黒澤は翌年の昭和38(1963)年に「天国と地獄」を撮り、昭和40年 に「赤ひげ」(1965年)、その後5年のブランクをおく(「どですかでん」(1970年)。
木下はどうか。2年後の昭和39年の「香華」(1964年)を最後に松竹を去る。 次に撮るのが3年をおいた昭和42年の「なつかしき笛や太鼓」(1967年)、それから映画は9年ものブランクがある(高峰が乞われて出演したという「スリランカの愛と別れ」1976年、松竹を去った木下は活躍の場をテレビへ移す)。
後に「衝動殺人 息子よ」(1979年 若山富三郎)にも高峰は乞われて出ているが実質的には「今年の恋」と同年の昭和37年「二人で歩いた幾春秋」(1962年)で高峰の木下組への出演はピリオドを打つ。この年の「秋刀魚の味」が小津安二郎の遺作となる。 なお、成瀬と高峰は昭和41年の「ひき逃げ」(1966年 シナリオ松山善三)が最後になる。3年後の昭和44(1969)年に成瀬逝去。
〈『わたしの渡世日記』(高峰秀子)には「私が成瀬巳喜男と最後に会ったのは、昭和44年のはじめ、再入院を控えた彼が成城の自宅で静養していたときだった」とある。(「イジワルジイサン」参照。)
結構充実していると感じた番組表もこうしてみると水面下で日本映画の黄金時代をリードしてきた監督たちをジリジリ追いやっていた斜陽末期の時期なんですね。 小津安二郎は翌年、昭和38年の12月に逝去。この辺りが日本映画の黄金時代の終わりなんでしょうか。川島雄三もこの年に急逝。五社協定事件もこの年。
〈『松竹大船撮影所前松尾食堂』(山本若菜 *中央公論社 *中公文庫)は昭和48年に『食道楽松尾』の暖簾をおろしたと「はしがき」にある(松竹撮影所が蒲田から移転した昭和11年が開店の年だという)、そして「店を畳む十年ほど前から、映画界は落ちぶれて来て、松竹では、京都撮影所を閉鎖して、大船に統一するために、大船撮影所の近くに、三階建のアパートを二棟建てました。昭和三十八年です。」と書いている。〉

黒澤の「赤ひげ」は明らかにこうした日本映画の危機をひしひしと受けとめたなかでの製作だった、完成まで足かけ三年を費やしたという。スタッフの力をぎりぎりまで絞りだして、重厚壮大な画面を描きだし(描きつくしたのではないか)〈黒澤はこのあと何を作るのか〉とドナルド・リチーが懸念すら抱いたほど。 リチーは「自分のスタイルをその終局まで押しすすめ映画人として生涯持ち続けたテーマを完成させてしまったように感じた」と書いている(『黒澤明の映画』キネマ旬報社)。
『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』(土屋嘉男 新潮文庫「ドストエフスキーの肖像」参照)にもリチーの想いを裏書きするような記述がある。引用してみよう。

「作り終わった時は、黒澤さんはフラフラになり、入院した。『三船と俺は、やることは全部やりつくした』と黒澤さんは言った。以後、三船さんは、黒澤映画から去っていった。『映画「赤ひげ」は、集大成である』と黒澤さんは自ら言い、これが大きな節目となり、次なる黒澤の世界に挑むのである。」

〈次なる黒澤の世界〉は、しかし、来ないままであった。 「赤ひげ」から次の「どですかでん」までの5年間は苦痛の連続とでもいえるような時間を過ごしたことは周知のこと(「トラ・トラ・トラ」「暴走機関車」は撮れなかった)、大きな節目となったのは確かなんでしょう。
〈この辺りの経緯については『天気待ち』(野上照代 文芸春秋 文春文庫)、『黒澤明 天才の苦悩と創造』(責任編集野上照代 キネマ旬報社、『パパ、黒澤明』(既出))に詳しい。〉

話を昭和37年前後に戻そう、その時テレビはどうだったか。
皮肉なことに映画の陰りの時代はテレビの黄金時代とダブっている。 「シャボン玉ホリデー」 「若い季節」 「夢で逢いましょう」 「てなもんや三度笠」 「番頭はんと丁稚どん」 これらの輝くばかりの番組は昭和36年から37年にスタートしている、「スーダラ節」が昭和36年に発売され「ニッポン無責任時代」は昭和37年に封切。「ハイそれまでよ」も同年の37年。
〈『わかっちゃいるけど シャボン玉の頃』(青島幸男 *文春文庫)には「シャボン玉ホリデー」は昭和36年6月に始まり青島が台本を書くようになったのは10月からだと書いている。〉
この勢いはリアルタイムで見ていた人には説明不要でしょう、植木等、渥美清、藤田まこと、青島幸男、みんなテレビの出身者だと『テレビの黄金時代』(キネマ旬報社)は指摘している。ぼくはその時代の気分のなかで見てきたからよく分かります、植木等の底抜けの笑顔と軽快なフットワーク、クレイジー・キャッツが出る、てなもんやを見る、バラエティのテーマを口ずさむ、軽くて(C調といっていました)明るくカラッとシャレていて、これらの番組を見ることの楽しさといったら比類がない、そういう時代でしたね。テレビに釘づけにされたわけです。テレビにもスターが星がいたという感じ。それもあちこちに輝いている。
そしてもうひとつ、ぼくにとって関西弁が、大阪の芸能が認知された時期でもある。
〈植木を主演にした映画は30本になるという(『テレビの黄金時代』)、渥美がスクリーンに出始め、後に「男はつらいよ」シリーズ(第一作は昭和44年)で松竹の屋台骨を背負うことになるけれどもそれも完結してしまった、昭和37年を起点とするともう40年余にもなるなんて、長い時間だったのではないだろうか。

あの頃というのは「貧しいけれど幸福だった時代」から「少し豊かになって幸福だった時代」への移り変わりになるのでしょうか。この何歩かの変わりようは昨日から今日へではなく弾みをつけてポンと飛んだような気がする。
『日曜日は歌謡日』(和田誠 *講談社 *講談社文庫)には“「スーダラ節」の大ヒットは大衆が本能的に何かをかぎつけたからではないか。それが何かがわかったのが高度成長のヒズミが露呈した時代”になってからだという指摘がある。飛んだ時間は思いのほか跳躍力があったというべきか。
なお、和田は「いつでも夢を」は確か昭和37年のヒット曲だと書いている。ありましたねぇ、今から思うとこの時代のもっていた底力を思い知らされる。明るくさわやか、「キューポラのある街」(浦山桐郎)の瑞々しさとともに時代の歌であり映画でした。〉
〈テレビの話は昭和30年代を語るときに軽く扱えないように感じる。受信契約数が1,000万台を突破したのが昭和37年だというが少し前の昭和34年で100万台を超えた比較からしてもその力はケタはずれだ、小津安二郎「おは早よう」(1959年)に出てくるテレビをねだる子供はぼくたちの世代だ。ここにはあげなかったが記憶に残る番組がタイトル不明のものも含めてまだまだある、「スチャラカ社員」、「エノケンの孫悟空」、「ママちょっときて」(タイトル? 乙羽信子 千秋実? )、「ターザン」、「ふしぎな少年」など。番組のタイトルはほとんど記憶だけによるため一部誤りがあるかもしれません。
『東京昭和30年 下町小僧』の「ブーム」「ブラウン管のヒーロー達」(なぎら健壱 *筑摩文庫参照。)

日本映画はこうして名匠たちの時代から衰退期にデビューを果たした世代へ、あるいは職人のように魂を込めて映画を撮り続けていた活動屋へその場を移しながら、それでもどっこい商業主義のプログラムのなかで優れた個性を放っていった。山田洋次、深作欣二、前田陽一、藤田敏八、山下耕作、瀬川昌治、神代辰巳、加藤泰などはぼくの時代の星でした。先にあげた〈もう一度めぐりあいたい映画〉は黄金期のものも含まれているけれどそんな骨のある映画のホンのひとにぎりにすぎません。
〈ここにあげた以外にも澤田幸弘、田中登、森崎東、三隅研二、伊藤俊也、増村保造、池広一夫、関本郁夫、80年代の相米慎二などの名はあの時代の日本映画を追いかけていた記憶と結びついている。〉
〈「『哄笑しつつ肥ろうよ』にっぽんB級映画試論」(『映画について私が知っている二、三の事柄』所収 1971年 山田宏一 *三一書房)はぼくの乏しい読者としての映画評論体験のなかでも最良の記述をもっている、プログラム・ピクチャーへの熱い情熱はこの頃の「キネマ旬報」の活気ある誌面とともにいまだに新鮮なる記憶として残っている。〉
とてもかなわない番外編
日本映画黄金時代の終わり

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追記
泉麻人「泉麻人の僕のTV日記」(平成6年 新潮文庫)に「ママちょっときて」は昭和34年7月から38年4月まで4年続いた和製ホームドラマ初のヒット作だと書いてある。乙羽・千秋の記憶は間違っていなかったようです。
この本は昭和47年の2つの「テレビ事件」までフォーロしていて詳しいのなんの恐れ入りました。
1つは山荘篭城事件中継でありもう1つは佐藤総理の引退表明のTV中継。
懐かしの名ドラマもギッシリ、記念碑的労作ですね。
索引があるとなお良かったんですが。