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| とてもかなわない |
| 黒澤明 |
「どですかでん」「デルス・ウザーラ」から「まあだだよ」に至る晩年の黒澤映画と「姿三四郎」から「赤ひげ」までのそれとの異質な作風については多くの人が触れている。高峰秀子が「デルス・ウザーラ」について“ロングが多かったね”と黒澤に話し“あきちゃてね、近くで撮るの”と答えたというのは言い得て妙。
〈ただし出典が不明でぼくの記憶で書いています。〉
〈追記 出典は『高峰秀子の捨てられない荷物』(既出)の中の「一日一笑」と『にんげん住所録』の「クロさんのこと」(高峰秀子 文藝春秋)だった。後者から引用してみよう。
「デルス・ウザーラ、観た」
「そう」
「ロングショットが多かったネ。人物もバストがせいぜいだった。どうして?」
「ぼくね、なんだかクローズアップを撮りたくなくなっちゃったんだ」
「なぜ? 役者が下手だったから?」
「いや、そんなことないけど」
「ないけど、なにサ?」
「つまり、アキちゃったんだね」
「そうか。つまり、トシとったっていうことね」
「ま、そういうことだ」
ぼくの記憶による会話はあえてそのまま残しておきたい。それにしてもどの本のどこからインプットした会話だったのか確認するのにエラく手間どってしまった。〉
「人込みの中で交わしたこの短い会話が、二人の“天才”にとって久々の再会であり、また最後の邂逅となった」と斎藤は書いている(『高峰秀子の捨てられない荷物』)。
ちなみに山本嘉次郎監督の三回忌でのやりとりだという。
〈山本嘉次郎は1974(昭和49)年没。余談ですが『いっぴきの虫』の市川崑の章で「崑ちゃん」といっしょに黒澤監督のクランク・アップに同行するところがでているがおそらく「どですかでん」でしょう、『黒澤明 夢のあしあと』「どですかでん」にスナップ写真があります。なお、『にんげん住所録』「クロさんのこと」に“「夢」には、黒澤明のすべてが入っていた。”という文章がある。
木下恵介への「私だけの弔辞」も忘れがたい、どちらも深いものを投げかけているように思う。〉
どですかでん、デルス以後はキャメラが遠くから捉えている感じでダイナミックな画面を作ろうとしていない印象。キャメラの位置だけのことではなく視線そのものが遠いという感じ。喪失感を全体で掴む目線に近い感じがします。黒澤が自己の「自然」に耳を傾けこうした世界にいきついたことはマークしておこう。絵の世界に入ってしまっただけなのだろうか(土屋嘉男『クロサワさーん!』新潮文庫にそうした記述がある)。晩年期の評価についてはまだ10年待ってもいいようにぼくは思っているのですが。
冒頭に黒澤を「映画の天使」と書いたのは「野良犬」の照明を担当した石井長四郎の言葉からアレンジしたもの。淡路恵子のアパートで三船が問い詰めるシーン、ありましたねドシャブリの雨の中、淡路恵子がくるくるまわりだす場面が。
その撮影のときに黒澤が「石井、天使のように撮ろうぜ、このカットはな」と一言だけ言いまし
た。」
(『黒澤明集成U』 キネマ旬報社) 天井に向けて大雨をふらしたり、ぱあっと開くスカートを光らせようとしたり現場が見えてくる話が一番面白い、石井は黒澤と同期入社(昭和11年PCL)だという。
〈なお、まだ読んでいませんが淀川長冶と宮川一夫の対談集に『映画の天使』というタイトルの本があります。〉
堀川弘通(『評伝黒澤明』毎日新聞社)が「椿三十郎」のもとであるシナリオ(「日々平安」)が『全集黒澤明』(岩波書店)に収録されていないと書いている。黒澤のオリジナルシナリオを読むと小林桂樹が演じた(敵方の侍役)のようなキャラクターが主人公の浪人になっていて刀をぬくこともなく弱そうな人物を登場させている。奥方(入江たか子)のおっとりした品の良い人柄はそのまま。
映画ではご存知のとおり〈ギラギラしためっぽう強い〉浪人=三船敏郎に変わり、室戸半兵衛=仲代達矢がライバルのようにやはりギラギラした感じで登場、有名なラストのにらみ合いになる。こうなるとキャメラはグングン寄っていきます。 「日々平安」から「椿三十郎」へ変わればかわるもの、堀川が言うように「日々平安」は「雨あがる」(小泉尭)の浪人に雰囲気が似ていますね。サラッとしているんですね人間が。
〈「椿三十郎」(1962年)のシナリオは菊島隆三、小国英雄との共作。なおシナリオ「日々平安」は『映画評論』昭和33年9月に監督堀川弘通として収録されている。「雨あがる」については『パパ、黒澤明』の第十章「雨あがる」(黒澤和子 文春文庫)が黒澤亡き後の映画の現場を熱く伝えている、なお全編に貫いているのは黒澤の映画への夢。第五章「娘の幸せ」に「“僕は映画馬鹿”のろくちゃんだよ」ということばがみえている。黒澤明の世界は思想からではなくふだん着のありのままの姿から描きだされるものかもしれないという気がしてくる。なお、「昭和十五年封切りの、〈エノケンの孫悟空〉の画面の中に、母の姿を見つけた」(第三章)とある。「一番美しく」(1944年)の矢口陽子ですね。結婚を申し込まれて姉妹に相談した〈母〉は「初めて座っている後ろ姿を見たら、ハゲているの。どうしたものかしら」とこの「大問題」について一同一晩悩んだという。散りばめられているエピソードが傑作ですね。同じ著者の『黒澤明の食卓』(小学館文庫)も映画とワンセットで面白い。〉
谷口千吉「銀嶺の果て」(1947)木下恵介「肖像」(1948)のシナリオライターはどちらも黒澤のオリジナル、映画もいい。暗雲に射しこんでくるやわらかな光を感じさせます。
ヒューマニストというよりロマンチストに近い感じ。映画のなかで主人公や取りまく人たちが清々しい何かを呼吸し新しい一歩を踏み出していこうとする、再生への希望を掴んでいくパターンですね。
「静かなる決闘」にもこの光を感じさせます。シナリオ「雪」にもありました。「生きる」「隠し砦の三悪人」もそうだ。
〈シナリオライターとしての黒澤にももっと光を、という感じが湧きます。『黒澤明オリジナルシナリオ集』というようなタイトルでまとめて出ませんかね。なお、黒澤自らメガホンをとらなかったシナリオの一覧(未映画化を含む)は『黒澤明 夢のあしあと』(黒澤明研究会 共同通信社)にある。〉
こういう流れは黒澤映画の太い線なのでしょう、青年が師の後を追いかけ成長していくというドラマ(「姿三四郎」「赤ひげ」「椿三十郎」)もその変形だ。
「赤ひげ」などは家父長制の現われではないか、とういう批評が公開当時叫ばれたけれども偉大な師だけでなく追っかける青年もまた黒澤自身を映しだしていると見ればスッキリするのでは。むしろ偉い師より青年の定まらないゆらぎの方が黒澤の分身に近いのではないか。
〈長部日出雄が家父長制を批判していたと記憶している、『映画評論』(1965年7月号「黒澤明の世界」)。
小林信彦がこの辺りのいきさつをコメントしていたはず。『黒澤明 音と映像』(西村雄一郎 立風書房)が異常な批評状況があったことについて触れている。
(「プロローグ」参照)。映画に思想を読み込もうとする風潮がありましたね、一時。〉
〈追記 家父長制についての小林のスケッチは「黒澤だけしか頭になかった」(『映画を夢みて』小林信彦
筑摩書房 筑摩文庫)にある。この本の“「仁義なき戦い」スクラップブック”はシナリオライターの笠原和夫に的を絞り迫力があります。〉
『蝦蟇の油』(岩波書店)ではかなわなかった6歳年上の兄の想い、忘れえぬ立川先生への敬意、厳格な父への反発が綴られ、黒澤に与えた影響は終生離れがたいほど強いものだったと感じさせる。
「ああいう奴ア好かねえ、ヘドが出そうだ」と「用心棒」の三船に吐かせたのも却ってウジウジしたやつの側に黒澤が身を寄せていなければ強烈にでてこない、そのくせ何とか助けようと一生懸命なのだ。
「血をみるのは大嫌いなんだ」という黒澤がぶった切るシーンに圧倒的な迫力をみせるのと同じ。
〈「世界」(1984年1月)の座談会「黒澤明の世界」(淀川長冶・武満徹・黒澤明)参照、興味深い話が詰まっている。後に『淀川長治、黒澤明を語る。』(淀川長治 河出書房新社)に収録。〉
植草の『わが青春の黒沢明』(*文春文庫)では大空に羽ばたく強い黒澤像が強調されているけれども〈弱いウジウジしたやつ〉もまた黒澤のなかにしっかり根をおろし、弱いからこそ強くなろうとする気概もそれだけ激しかったとぼくには思えるのだがどうだろう。
映画の天使は少年のような瑞々しさをどこかに住まわせていたのでしょう。「桃畑」の少年かもしれません(「夢」第二話)、あるいは「七人の侍」の勝四郎か、「野良犬」の淡路恵子にも同じものを見ていたのでしょうか。ハツラツとした少女(小田切みき)を見るだけでも「生きる」は凄いと思うのですが。
さて、高峰秀子と黒澤明はいうまでもなく日本映画の黄金時代を支えた方なのだが、黄金時代のたそがれについても眼を向けておきたい。昭和という時代のひとつの断面が浮き彫りにされるはずだと思うからである。
〈日本映画黄金時代との訣別については1979年に高峰秀子が〈「裏方さんよ」さようなら〉という標題で「映画界への弔辞だと思って書いている」文章がある(『つづりかた巴里』(*潮出版社 *角川文庫)。
テレビの裏方さんと映画の裏方さんとの比較(その「決定的な違いは〈ハニカミ〉の有無にある」という)にこういう記述がある。
テレビの裏方さんの生態をあげながら「すべて、映画界だったら〈無礼者! 下がれ! 〉の一言で消されるような人々が、テレビ界に続々と現れて、〈一丁あがり〉の作業をくりかえしている。」
映画の時代の凋落を見た高峰にとっては同志である映画の裏方さんが退かざるをえない状況に自身を重ね「映画人がいなくなった」現実とそれでも「情熱的なまなざし」を失わず踏みとどまる裏方さんの間に立ち自問自答を綴っている。
高峰の“さらば映画”は映画を支えた人たちのすべて、もちろん身銭をきって見続けた観客も含めて、「回想の人となる」ことで銀幕の時代に自らピリオドを打ったようだ。
〈「ハニカミ」は「含羞」とも言い換えられているけれど自分の仕事に誇りをもち頑固にまっすぐ一生懸命打ち込み、表(画面)にはでてこないが恥らう心をもった働き者を指す。ピンと張りつめた映画の現場を支える人たち。ぼくなりに意訳したのはこの言葉は映画の世界を超えて働くこと、生きる姿勢につながるものを持っているように思うからで奥行きは深いのではないか。大げさにいえば戦後の日本人のある時期でのひたむきさに通じるような。〉
ぼくたちが知っている大きなうねりとしての日本映画は終わった。ふだん着で感動を共有できる場を失なった。 しかし、日本映画の時代とはいったい何であったのか、観客も含めてそこに堂々たる創造性があった時代といえないだろうか。その開拓はまだこれからではないか、残された]を秘めていないだろうか。そして本当にもう映画の復活はないのか、共有できる場は創り出していけないものか、ぼくの疑問はつきない。
時代を遡り日本映画の凋落の始まりあたりを見ておきたい。
1962(昭和37)年へ。