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とてもかなわない番外編
若山富三郎

やくざ映画の系譜などというとアレルギーを感じる方もおいででしょうが「美学」ということばをよくつけたりしますが実に単純なストーリィの積み重ねのようです。
ぼくは純粋培養型のドラマとみれば分かりやすいと思っている。何しろ「悪」がいないことには話が動かない、それもホントに憎たらしいワルイ奴でなければならない、こっち側には真っ正直で旧い徒弟制度を守るキチンとした人たちがいなければならない。仕掛けや挑発によって平和な関係が脅かされ崩壊にいたるギリギリのところで自滅覚悟で「悪」に向かって挑んでいく。
〈「総長賭博」では金子信夫が実に小賢しいワルい役を演じていました、目ん玉なんか三角になってませんか。後の「仁義なき戦い」の山守親分はすでにここにいた。どなたか失念しましたがそういう指摘を読んだ覚えがあります、納得ですね。〉

キチンとした人たちは平和が崩されていくのを何とかくいとめようと頑張るのだが幾層にも重なりボロボロ崩されていくんですね、壊されていくものが可憐で愛しいものであればあるほど抑えていたものが純粋に研ぎすまされていく、この辺りが醍醐味で「美学」と呼んでもしっくりするような構成になっているようです。
うまく考えたものだと感心します。守りたいものは共感さえ得られれば実は何でもよいのですがやくざ映画の場合は任侠とか同志愛というところに持っていったのでしょう緊密な人情愛でひとつの破ってはいけない型を作ったわけです。
しかし、ここにはやわらかな光どころかどうしても内へ内へと追い詰められていく孤立感というか悲愴感がでてしまう。山中貞雄の「人情紙風船」のラストに漂う〈すべてが失われる〉感覚に近いような。「遊侠一匹」(加藤泰)にもありました、深く閉ざされた喪失感。
やくざ映画を超えてこれは日本映画のもうひとつの型なのでは、というのがぼくの仮説ではありますがどうでしょう。
新藤兼人が殿山泰司の映画(「三文役者」)を作ったように実録の若山富三郎も映画で見たい、〈若山富三郎という映画〉ですね。潮が書いているように「蒲田行進曲」(深作欣二)の銀ちゃんの世界になるんでしょうか。

〈映画と離れるけれども『島倉千代子という人生』(田勢康弘 新潮文庫)、面白く読めました。〉