高島善哉 c.社会科学に魅力はあるか
思えば青年にとっての読書には変な例えだけれど銭湯に行ってアチィと感じるくらいの熱さが必要なんだと思います、ぬるま湯ばかりだもの昔も今も。格闘しなくっちゃ。これは自戒のことば。本に関する多くは圧倒的に小説・エッセイあるいはサブカルチャアに関するものが多く、社会科学の世界は視野に入ってこない、どうやら魅力を感じていないなァ、と感じさせる。読書案内や古書大好きの方々にもつぼくの不満は、ないものネダリを承知で言ってしまうとその辺りにある。
もっともぼくの貧しい教養のなかには文学的・歴史的嗜好が薄く言えた義理ではないのだけれど。
しかし、とこうも考える。社会科学の側に問題はないかと。 経済・政治・教育の分野でハウ・トゥーものはともかくとして時代を後追いするだけでなく専門性を超え思想と理論の創造を感じさせる魅力をもっているのだろうか。教えを乞いたいものです、あってもあまりに学術的専門的で降りてこないのか、噛み砕く力がこちらにないのか。それとも専門性の奥深くに潜むもので自ら耕すものなのか。
昭和40年代からさらに戦前・戦中まで遡ってみよう。戦前から戦後すぐの社会科学にはぼくの偏見なのか、未だに開拓され継承されるべき力を持ち続けているように思われてならないのですが。
例えば、少し特殊な話題になってしまうけれど太田可夫の業績(『イギリス社会哲学の成立』*弘文堂、後に増補され『イギリス社会哲学の成立と展開』*社会思想社)。高島の『経済社会学の根本問題』。どちらも専門化がすすみ細かく枝分かれしていく以前の大きな構想力を感じさせる。
刊行の年は次の通り。
『イギリス社会哲学の成立』(1948年)
『経済社会学の根本問題』(1941年)
〈1938(昭和13)年に発表された太田可夫「アダム・スミスの道徳哲学について」(「一橋論叢」二巻六号)も戦前の大きな業績、『イギリス社会哲学の成立と展開』に収録されている。〉
自己を内省し内へ内へと向かう哲学ではなく外へ、他人へ社会へ広がっていく哲学、物を持ち所有する具体的な人間を捉えて人と人とのつながりを考察しようとする独自性をイギリス経験論の発想に見いだし社会哲学の成立を基礎づけた太田の独創的研究。生産力理論と市民社会を社会科学の根本問題に据えた高島の著作。アダム・スミスとF・リストを対象とした経済学史研究なのだが時局を睨み社会科学の原理的な問いかけを中心に置いている。
太田と高島が見据えようとしたもの、その方法態度、社会科学と社会哲学の開拓は依然として生命をもち続け、太いラインがこの時代に引かれたのではないか、というのが率直なぼくの仮設を含んだ疑問です。両著作をワンセットで捉えてみるとその位置がいっそう浮き彫りにされるように思う。
研究の基点がここから開き昭和40年代のうねりにもう一度高まっていくという流れがあるように感じている。
〈しかし、難しい。独特の文体、原典を徹底的に読んでいなくては語れない論理。いつになったら登攀にいきつけるか仰ぎ見るばかりです。〉
継承の鍬を待っている開拓者の業績。そんな想いはあってもとてもかなわぬ超テーマだからぼくとしては周辺のまた周辺をうろつくしかない、というのが本当のところですが。
余談ですが高島の絶筆となる「イデオロギーとは何か」(既出)は80歳を超えていたことに改めて驚いた、数字に疎いというか無感覚なぼくは70歳台だろうぐらいに思っていたのだけれど、脱帽です。励みになりませんか、生涯を通して探究者として生き抜いた精神力というかその気迫。
その翌年の1989年10月に対談が行われ活字になっている、スミス没後200年を記念する国際シンポジウムの準備としての『アダム・スミスを語る』(1993年 水田洋・杉山忠平編 ミネルヴア書房 所収の「市民社会論にむけて」参照)である。
対談でも高島は原理的にものをしっかり掴むことだと語り、生産力理論の一端を展開している。シンポジウムへの出席はもちろん叶わなかったが高島が生きていたら21世紀に入り凄みを加速させている時代の喪失感覚をどう見るのだろう。最後の著作となった『時代に挑む社会科学』で繰り返し実践としての社会科学の再生を訴え反省を迫っている、その終章は「平和の創造をめざして」であった、そこでも高島は「原点に帰れ」と説いている。
〈『高島善哉著作集』には収録されていないが学問的生涯を語った「私の経済学を語る」(1980年4月「エコノミスト」『人生・風土と社会科学 続・私の人生論ノート』(1985年?*秋山書房所収)が問題のありかと足どりを概観するうえに有益だと思う。『経済社会学の根本問題』から以後の高島の歩みは個別のテーマを掲げながらも常に一貫している、広い裾野に根づかせようとしたものが生涯追及されている。〉
〈「原点に帰れ」という高島の叫びは専門社会科学者への痛烈な批判と一体になっている、器用で場当たりなタレントが多すぎるとか(専門分野を超えるような)問題(例えば「平和」とか「戦争」とか)にたいして発言する段になるととたんに社会科学の土俵を踏み外すとか、統計を駆使して細かい分析や解釈は得手だが共通の土俵にたち掘り下げ生み出す努力が不足しているとか、危機を危機として捉えられない人が増えてきているとか、枚挙にいとまがないほど。ぼくは学生時代にこうした闊達な発言を著作からよりも直に聞くことで新鮮なインパクトを受けていた。高島節とでも形容できますね、座談の面白さについては著作集の月報で触れられている。〉
〈ぼくもその尻馬に乗っておなじことを言う資格はないけれどただひとつ、「原点に帰れ」の指向が共通の土俵にまで立ち戻り原理的に掴み直すことを意味するならわれわれ素人もその土俵に加わり入っていけるのではないか、ということ。同じ社会を呼吸し浅い深いの違いはあるでしょうが時代の十字路にたつ人間として「問題」を意識し共有できる。「原点」は専門化や個別集団を超えて等質の個人(市民と呼んでも良い)をも呼び集める磁場として作用する(求心力という感じでしょうか)。高島の著作がその輝きを失わないのはその辺りにあるのではないか。〉
さて、3回にわたっての「とてもかなわない」高島編をいったん閉じることにしよう。今さら不勉強を恥じてもはじまらないけれど懐の浅いこと視野の狭いことは如何ともしがたいところか。 人物クロニカルでも触れたように昨年2004年は高島の生誕100年である、だからどうだというわけではないけれど明治後期に生まれ大正から昭和の初めに青年時代を過ごした方々のなんとユニークで器の大きかったことか、そしてひとつの道を生涯貫き創造的に開拓していく気骨。 高島は暗い谷間の時代に視力障害と戦いながら、学問を通して自分を徹底的に鍛え直そう、と命がけの飛躍を試みたという、ついに未完のまま終わってしまった生産力の構想が思想と理論をつなぎとめ人間と社会の連関を究明するものだとすれば、その着想はこの辺りから芽生えてきたのかもしれない。 青年高島にとっての原点なのでしょうか。
〈『自ら墓標を建つ 私の人生論ノート』(高島善哉 秋山書房)の「四つの体験をとおして」は実践と学問(理論)をめぐる高島の苦悩の跡が生々しく語られている。大正から昭和の時代については『私の読んだ本』(1971年 松田道雄 *岩波新書)が当時の社会と知的探索の跡がたどれて興味深い。ここにも実践と理論をどう自分の生き方につなぎとめるかという格闘の記録がみられる。『暗い谷間の自伝―追憶と意見』(大河内一男 *中公新書)と合わせて読むと興味深い。暗い時代に青年たちがどう生きていたか、何を創造したかというテーマは先にあげた人物クロニカルと重なってくる。
なお、内田義彦は大河内一男との対談でこう語っている。
「僕は戦争中に初めて、輸入の学問ではなくて、日本の学問の芽がでてきたと思っているのですが、そういう新しい学問ができあがっていく媒介項に、スミスがなっている。そこにポピュラリティがある。」 (『世界の名著 アダム・スミス』昭和43年 付録「アダム・スミスの現代的意義」対談 内田義彦 大河内一男)。
高島の「日本からスミスをみる」態度と繋げてみるともう一度この芽を見つめ直す余裕があってもよいと思う。果たしてその芽は育っているのだろうか。 教えを乞いたいものだ。〉
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とてもかなわない
高島善哉