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▽ 注目の新刊書 夏休みと称して更新もほどほどにいくつか新しい本を読んでみた。「淡島千景 女優というプリズム」(青弓社 2009年 定価2,940円)は週刊文春の小林信彦の連載で知っていたとはいえ改めて凄い本だなと震えました。淡島千景が生きて来た証をよくぞ書物というかたちで記録してくれたものだと拍手を送りたい。ウイスキーのコマーシャルで(うろ覚えですが)“深く、こく、やわらかい”というのがありましたがそんなキャッチフレーズが似つかわしい。淡島は京マチ子や乙羽信子、高峰秀子、越路吹雪と同じ大正13(1924)年生れ、今も現役というのも畏れ入るしかない。副題に付けられた「プリズム」ということばもいい、もちろん凄いのは淡島千景その人なのですが淡島という女優のプリズムに映し出された日本映画の巨匠、名匠、職人たちと共演した役者たちのエピソードがとにかく面白くて深く広い。「まえがき」(鶯谷花)で淡島が小津安二郎や長谷川一夫、森繁らを「演じ」て語り、聞き手たちはその語り口に「すっかり魅了されてしまった」とある。恩師・渋谷実の項でも渋谷がしきりに「ツブ立てて」といったという話題を引きながら、それはどんな演出意図だったのかと聞かれて答えている、「(渋谷実の真似をして)『チュブダテテ、チュブダテテ』って、『ツブ』じゃないのよ(笑)」 これじゃまいってしまうのも無理ない。
フリーだった淡島のキャリアは日本映画縦横断、つまりは縦と横の断面を鮮やかに蘇らせる。成瀬がいて豊田四郎がいて木下、渋谷が川島雄三がいる。昨今は女優やタレントということばも随分軽くなってしまい、それどころか当サイトが知らない方たちが当然のように女優やら有名タレントとして流通しているようでしばしポカンとしてしまい面喰らうことばかり。そんな女優・タレントと淡島世代(とあえて呼びたい)が格が違うとは誰もが感じていることでしょうがこの本を読むと格が違うとかのレベルではない、もう比べることじたいが違う、まったく土俵が違うんじゃないか、あるいは存在そのものの違いというのか、比べることすら失礼ではないかという感じ。
この本のなかでオッと驚いたのが淡島千景とキャサリン・ヘップバーン(「赤ちゃん教育」!)を線で結んでいるところ(124ページ)、ふたりの共通の資質をよくもまあ捉えたものだ─奔放さと洋風コメディのスケールにのるリズム感というのか─、そして淡路恵子インタビューや森繁のことばが巻末を飾る。淡路は「あたし女優さんで、わーって惚れ込んだのは淡島さんしかいない」と語り森繁は淡島が健在であることに「救い」ということばを使っている。浮かびあがる淡島千景の世界はこの本で初めて開かれようとしている。今までも本にするための申し出はあったけれどここまで来れたのは“私ひとりの力じゃないから”と断り続けてきたという、今読みたいのはまさしくこういう方の本ではないでしょうか。深く、濃く、柔らかく、そして慎ましい淡島とその世代、これぞ「救い」の在り処です。  <8月17日>


▽先日久しぶりに旧友に会ってとりとめのない話をしていたら、怒ってましたよ。“ああいう云い方はないだろう”って、女優の訃報についてのTVの扱い方についてです。“想像すればすぐ判るようなことをいちいち(詳しく)コメントするなっ”というのです。確かに、云わなくてもいいようなことを細かく伝えていかにも「報道」してるぞっていう変な感じってある。とくに今年の5月から(発端は忌野清志郎の訃報)連打された新聞のトップニュースや訃報記事をなぞっていくと奇妙な怖さを感じる。いずれこのスペースでその辺りをまとめてみようと思いますがここで紹介したいのは「壊れちゃいそうな美しさ 大原麗子さんを悼む」(朝日新聞夕刊 8月10日 降旗康男)。  
降旗は映画「居酒屋兆治」での「美しく狂っていく」ヒロインの役は大原麗子しかいないと語る。「狂う演技は役者なら誰でも出来る。しかし、狂っているように見せず狂っていく、狂っているゆえに美しく見える。これは大原さんしか出来なかった」、そしてこう続ける、そのヒロインは「ある意味、彼女の人生そのものだったようにも思えてきます」。降旗は東映撮影所の青春時代を重ねながら「同級生」大原を偲びその死は「居酒屋兆治」のヒロインとまったく同じで「大原麗子らしい行き方じゃないでしょうか」と逝き方さえも美しさのことばで包んでいる。何だかホッとしましたね、この記事を読んで。ことばは(もちろん活字もそうですが)心とともに使うものだと云ったのは大村はまですが気持ちが込もったいい記事(談話)だった。 <8月17日>

▽ 承前 時を経た古本が本の素に還っていくとしてもそれらは発掘する人がいなければいずれはどこかへ葬らされてしまう、文化ということばをここで使うのは気恥ずかしいものがありますがやっぱり文化というべき素材の山だと思いますね。(古)本はモノではあるけれど読まれ活用されることでモノからはみでてゆく、ただ気になるのは古本へ向けられる眼が少し冷ややかというか意地悪いというのか無知というのか、どうもパッとしないこと。当サイトが古本店主と雑談していた時に見聞きしたことばでこんなのがある─
その1 客「(文庫本の棚を指差しながら)あの、これ全部(1冊)100円なんですか?」 店主答える「後ろのページに値段が書いてありますから・・・そうじゃないのもあります。」 文庫1冊押し並べて100円という発想がどこからきているのかよく判りませんが、その程度のモノという捉え方が結構多いのではないか。
その2 アベックの客「(後ろの値段を見て)これなら新しいの買えちゃうじゃん。」と足早に去る、見ていたのは文庫の棚。入手しにくい本には新刊と同じくらいの値が付けられるのは不思議ではないのだけれど「セコハンなんだから安くてトーゼンという客が最近多くて・・・」と店主ボヤク。
古本への距離が一般の人、つまりは可能性としての読者から少しづつ、しかし確実に遠ざかるつつあるのではないかという印象を年ごとに強く感じる。古本だけではなく新刊書も同じ状態なのだろうか、よく聞く返本率の高さに示される「出版不況」。
翳やうつろいやどうにもとけない複雑な絡み合い、一言で云えば屈折した複雑な世界があることをそれぞれの時代の本が教えてくれるのではないか。脇道にそれてよそ見をして道に迷いあちこちじっくり見てヨタヨタ歩くのが面白いのにまっすぐ前だけ最短距離だけを睨んで進んでいくのは「ふつうの何かを失っている」歩き方だ、そんなことを教えてくれるのも時代から置き去りにされた本の山ではなかろうか。時の流れは速く旧いモノってやぼったくショボイんじゃないか、という声の方がアタリマエの時代なんだろうか。たぶん人の暮らしは「進化」しすぎてしまったのでしょう、当サイトも余裕ができるといろんなアイテムを詰め込むことが充実した日々であり時間だと感じてしまうことってある、コンサートを観て洒落れたレストランで食事をして買い物を愉しみ、運動不足だからとジムへ通い岩盤浴もしてついでにツーハンで身体にいいと評判の○○も注文しとこう・・・どうだいアイテムだらけの「上質」な暮らし、ワンランク上の生活を目指す「ショボイのはいやだ」というセンスの何と饒舌なこと。もうショボイ世界になんて戻れない、古本と一口に云うけれど洒落た装丁の入手しにくい小粋な本や写真集などはちゃっかり幸せカタログのアイテムに加えられていたりするから事は単純ではないけれど「ふつうの感覚」が麻痺してしまって自分と向き合う静かな時間は遠ざかるばかり。 続 <8月10日>

▽注目の新刊書 その2 「書痴半代記」(ウェッジ文庫 岩佐東一郎 定価700円)は今年(2009年)4月に刊行された書物随筆であり交遊記。夢声 夢二 小島政二郎 正岡容らが登場、この本の中にゆったりとした時間が流れていて、本を求めて彷徨うセンスが旧くて新しい。

2009年8月

▽ 承前 古本(店)のくずれ落ちそうな山はモノとして見ればただのガラクタ、時代に置いてけぼりをくって今は見向きもされないモノたち。けれども新幹線で通過して見過ごしてきた風景が各駅停車の鈍行に乗り換えてみると鮮やかに蘇ってくるような気分が古本店にはある。時の中でホコリをかぶって時間を旅していくうちにかっての栄光、喧騒、無視、虚飾がそぎ落とされて本そのものに還ってひっそりしている。どれもそんな本の素だけを浮きたたせているような気配。古本店を訪ねる愉しみのひとつは通り過ぎてしまった、もう元には戻せない時代のカケラを探しているようなところがあるんじゃなかろうか。函入で威張っていた学術本も凝った化粧で彩られたお洒落本も人の噂話ばかり語っていた芸能本もコントンとして並列されて、たまたま今は売値が違うけれどこの先50年も経てばそんな数字はどうなるものか誰も判りはしないのだ。 続 <8月2日>

▽ 注目の新刊書 その3  「サラリーマンNEO 内村宏幸オリジナルコント傑作集」(光文社文庫 内村宏幸 2007年 定価760円)  今、最も面白いTVヴァラエティといえばNHK総合で日曜日の夜間に放送されている「サラリーマンNEO」、鋭く叩きつけるようなサウンドからスタートするこの番組は一般のドラマで脇に回る面々が前面にズリ上がり皆さん役者やのーぉという勢いがあってまさに「おとなの漫画」。ズレるおかしさ、空気がその一言で一瞬に変る面白さ。それにしてもNEOの傑作シナリオが文庫に入ってくるとは驚きです。わかってるファンがいるのだろうか、当サイトはほとんど電車のなかで読んでしまいましたが思わず何度も笑ってしまった。 <8月21日> 

▽ 注目の新刊書 その4・5 「病室のシャボン玉ホリデー ハナ肇、最期の29日間」(なべおさみ)と「月亭可朝のナニワ博打八景」(吉川潮)は、下記の販売リストへ載せました。どちらも読みだしたら止まらない、シャボン玉ホリデーとその時代を知る方、小染や枝雀、やすしの最盛期をご存じの方、それぞれの想いがとけあってしばし残る余韻は遠い時代の花火の音のよう。

▽ 承前 当サイトも古本屋の端くれとして例えば図書館の総分類で最初の方の一角に必ずある古本(店)関係の本はたまにチェックしていますがそれぞれに個性的で見知らぬ本や著者について多くのことを教えてくれる。どうしても文学寄りになるのは仕方がないことでしょうがそれにしても深く広くよくもまあ勉強してるもんだと感心してしまう。ひょっとしたら、もちろん独断と偏見を承知のうえで云うのですが古書や読書についての蘊蓄というのはそれぞれの方独自の「教養」の深まりを指向しているんじゃないかと感じることがある。研究者ではないことは承知していますが興味深いのはほとんど常に1冊の本を点と点で結び点、線、面へと広げていく探求心。どんな分野であれ果てしなく分化・専門家がすすみ効率とカタログ化が網の目を張りめぐらし生き生きとした全体が見えにくくなっている。いかに失敗をしないで最短距離を駆け抜けるかという生き方が一流(?)志向だとすればあちこちつまずき失敗しながら、しかも誰も見向きもしない古本などに瞳を輝かせているというのは普通では考えられない生き方。新幹線で行けばよいのに徒歩で行くようなもの、行ったことないから(行きたくもないというのがホンネ)イメージで例えますが六本木ヒルズの対極にあるような世界。点と点を結ぶというのは例えば山田風太郎と高峰秀子、栃折久美子と宮城まり子、渥美清と団鬼六、團伊久磨と豊田四郎というようにAとほとんどまったく異質のBが結びつくときにAまたはBの世界が違う貌を見せてくれることの面白さ。AのファンでAの本ばかり読んでしまうというのは一時期ということであればよくあること、けれどもそれだけで完結してしまう世界だということにやがて気がつく、AがB,C,D・・・へつながれて彷徨ううちにAとBの結び目にも面白いものがひそんでいることに気づく。その人にとっては発見でしょう、Aの世界はそれまでとは違った世界に、微妙にですが変ってゆく。分化ではなくてどうしようもなく関わってくる世界(の端緒)を知ることの愉しみ。 続 <8月19日>