▽本田靖春の「賢姉愚弟」という短い追想は誘拐事件という<暗い話>をドラマ化しようとする熱い人たちにスポットをあてている。「ご都合主義的で安手なこしらえ物のドラマがまかり通るテレビ界の現状」の流れを変えたいというあるプロデューサーが本田の原作をTVドラマにしたいと動きだす。しかし、簡単には進まない、放送されるまで二年八カ月かかったという。その間、援軍であり続けたのが向田邦子だった。遅々として動きださないふがいなさに怒りテレビ批判をブチ上げていた本田も「一文の得にもならないよその仕事に情熱を注ぎ、その成功をわがことのように喜ぶ」向田を見て「テレビの世界の人びとに対して抱いていたイメージの修正を迫られた」とあります。ドラマづくりには脚本家ひとりの力ではどうにもならない事情があることを聞くこともあったという。本田は向田から「あれがいけない、これがいやだなんていわず、いまは黙ってどんどんお書きなさい。そういうことだって大切なんですよ」「そのままでは拗ね者になりますよ」と「一刀両断」に斬り捨てられたと云う。「姉」から「弟」へのことばだっただけに余計心に沁みたのでしょう。テレビを取りまく「世界」は「常識」や視聴者あるいはスポンサーの「声」やデーターやらを取り込んでくるし、時の事件に群がり嬉々として流行を追いかける喧騒に幼児性とヒステリィという体質すら漂っているから不気味。しかし、この「世界」はそのまま現実のどこにでもある会社や業界や団体にもあることですが。それでも「拗ね者」にならず気骨のある作り手がいる、熱い視線を送りつづけている視聴者がいる。遠回しに記してきましたが「セクシーボイスアンドロボ」(日本テレビ)第7話の突然の放送中止(5/22)は作り手と受けとめる側の関わりについて、そして「世界」がひょっこり顔を出してくることについて考えさせてくれた。良質のドラマに出会えた時の喜びは時代を共有しているという今の実感と現在地を見つめ直すことを後押ししてくれるところにある。その機会が失われた無念に対しては、それでも「(明日はあなたにも)あるよ」と云ったニコの励ましのことば(第1話)を重ねておこう。援軍はひっそりとどこかで見守っているはず。本田靖春の引用は「向田邦子ふたたび」(文春文庫)。 <5月27日>
▽例えばこんな体験がありませんか、ある古書店で買った古本が数軒先の店になんと五千円も安くでていた、“しまった、早まった” ところが更に別の古本屋さんの棚では一万円も高い値段がついていた、なんて。こんな悲喜こもごもを記しながら森本哲郎はこう云う。「しかし、考えてみれば、こいつはなかなか面白いことではないか。現代の都会で、おなじものが数軒先の店と、五千円も一万円もちがうということは、古本以外にはそう考えられない。おそらく、それぞれの店の主人は、他の店でおなじ全集が五千円安く、あるいは一万円も高く売られているのを、じゅうぶん承知しているにちがいない。」 極端なケースだと某古書店の三千円の値札の本が百円均一台に転がってた、なんていうことも(地域を広げていけば)皆無ではないでしょうね。そのことも主人たるもの知ってはいることでしょう。締めくくりは「そこで私はすっかり愉快になった。」と続く、「すべてを情報化してしまう現代社会のなかで、そうした情報化をせせら笑っている世界がまだ残されているのを、あらためて確認したからである。」 本の価値は(一律の)価格にすべて還元されつくされない自由を確保しているということなのでしょう。確かに探している欲しい本は「無数の本のなかに、いつもこっそりとかくれている」、だから自分にとっての宝を探す愉しみがあるというもの。「人間にとって、最大の愉しみは『探す』ということではなかろうか」─ に至っては読者も古本屋の主も同じなんだと思いますね、こんな本がいたのか、というトキメキがなけりゃ。 引用は「読書の旅 愛書家に捧ぐ」(森本哲郎 昭和59年 講談社文庫)。 <5月22日>
▽「セピア色の映画館」(1999年 田辺聖子)を読んでみた。これがいいんですね、邦洋画スタア讃。クックッと笑えて共感しながら読むことができました。娘心を失っていない方なんですね。例えば「ローマの休日」(1953年)のヘップバーンが長い髪をショート・カットにするシーンに「大げさにいえば全日本中の若い娘は震撼した」「ヘップバーン刈りといわれたショートカットを、早速試みた女たちの中に、実は私もいたのである」、それは旧く暗い日本からの出口への示唆となったとある。最終章の「日本映画の誇るべき女優たち」のトップにあげているのが著者幼女時代のスタア桑野通子、モダンで下町ムスメのあったかさがあってファンだったという。分かります! この方の映画を観たら目に焼きついてしまう、昭和10年代にこんなシャキッとした雰囲気の方がいたとは驚き、ちんちくりんじゃないんですね、ノビノビしていて。当サイトは「有りがたうさん」(清水宏)の桑野通子に一票、今の時代にもストンと(違和感なく)収まってしまう感じ。「浮雲」(成瀬巳喜男)に<身につまされる思い>を知り田中絹代の「典雅な顎の線」に美しさを認め轟夕起子の「ハナ子さん」(マキノ正博)に「戦時下の奇蹟」の歌声を聞いた。「日本は世界に誇りえる美女をおびただしく産出する国だ」(180頁)とはタカラモノを見続けた著者ならではの感慨でしょう、だから“美しく佳きもの”を若い人へ語り継ぎたい。ホントにそう思いますね、こんないいものを伝えていかないでどうするんだという想い、受けとりました。 <5月20日>
▽「セクシーボイスアンドロボ」(日本テレビ)には暮らしのカケラに目を注ぐところがあってそこのところが妙にリアル。牛乳瓶のフタや買物のメモ、レシート、値札、卵の殻。5/14放送の第6話の台所のシーン、「窓から夕陽が見えて・・・」のシーンにもそんな音と景色がスケッチされていました。「あのヒトや子どもの声がとぎれとぎれに聞こえてきて、皿がふれあう音やネギを刻む音、野菜が煮えてくる匂い・・・」、だから気に入っているこういう(家族の)生活を「失いたくないんだよ」とつぶやいた場面。「すいか」にもこんな情景がありましたね、逃亡中の小泉今日子が親友のアパートを訪ね流しに積まれた朝食後の茶碗(そこにポツンと梅干のタネがひとつづつ!)を見つめながら「泣けたヨ」と云っていたはず。どこかこのドラマに品の良さを感じるのはふだん見逃してしまうような点景やことばにキチンと向き合っているからかな、火曜の夜は大切にしたい時間です。 <5月18日>

▽「お聖千夏の往復書簡」(田辺聖子・中山千夏 話の特集 1980年)という滅法面白い本のなかに奇怪な文壇・出版壇の話題があります(単行本74頁から)、小説家の受賞記念パーティの「ただならぬ」雰囲気を中山千夏がこう描写しています。「平らな会場なのにあちらは冷淡の河こちらは皮肉の淵、かなたは栄光の峰こなたは落魄の谷、と起伏に富む景色にて・・・」と羨望、軽蔑、嫉妬、反発などが渦巻く異様さを伝え、すぐ続けて(その中で)「ただ一輪の草花みたいにぽけっと咲いていたのは、田中小実昌さんでした。」 ─ なんだか目に浮かびますね。「出版壇」という文壇とはまた違うものがあるそうです。これも師弟関係や交友(遊)関係などひととおり熟知していないと編集者は務まらないという記述からなんとなく分かります。どこもそうなんですネ。

▽この本はモノを買う買わないよりそれ以前の周辺が大事だ、という買物談議 ─編むことが好きで愛着をもってセーターを編んでいる女主人の店が気に入った中山が「買うか買わぬかだけ考えて大量生産されたセーターを三枚買うくらいなら、このお店のを一枚買ったほうがうんといい」(156頁)と記している─ や無節操な小商人がはびこってきたことへの警戒心、女性=天使しかし若い時は「女悪魔」になりなさいという田辺のことばや感じの良い若い女性がちやほやされていくうちに「あれよあれよといううちに社会人としても女としても落下してゆく」(184頁 中山)無念など啓発されることばかり。「現代の危機は老若男女、貧乏金持、無学有学を問わず、多くの人々が何か確たるものを信じたくて、うずうずしていることではありますまいか」(28頁)という中山説に触れると1980年刊行のこの本が見据えていたものがその後の時代史(事件史?)と照らし合わせてみるといかに的を射ていたかが分かる、特に1995年事件やバブル期に小商人たちが跋扈した世相。テレビといい出版といい没個性というかどこも同質の一色に染めたがるイヤアな感じはもはや支配的と云ってもいいほど、時の人が登場すると異常なほど群がるのも根は同じか。 <5月15日>
▽少し早いニュースですが6月12日(火)から7月22日(日)までフィルムセンター(東京 京橋)で川島雄三監督特集40作品が上映されるとのこと。「幕末太陽傳」公開から50周年とのことで映画の公開が昭和32年ですから昭和で通算すると今年は82年ということになりますか。大画面で観られるのはめったにない機会だけにワクワクものです。入手しやすい本として藤本義一「川島雄三、サヨナラだけが人生だ」(河出書房新社)がおすすめ、キネマ旬報に三回にわたって掲載された連続対談が再録されていて(当時も話題になりましたが)独特の味わいに魅了されました。ゲストは殿山泰司 長部日出雄 小沢昭一。<5月11日>
▽いつもなら読み飛ばしてしまう新聞の記事に目が止まった。タイトルは「週刊 コミック ジャック」。読んでみると話題はコミックとTVドラマ「セクシーボイスアンドロボ」について。「 ─ 世界には隙がある。/ たとえびっしり取り囲まれて、出口がないように見えても、ちょっとどこかをずらしてやれば、思いがけない道が開けることがある。」 そう書いたのは藤本由加里という方、鋭いなァ。このドラマは荒唐無稽な話だが妙な魅力と実感があるという(同感です)。見るものに「・・・世界の本質に届いている、という感覚を抱かせる」(いづれも引用は5月9日 朝日新聞夕刊から /は原典の行替 )に至ってはよくぞ云ってくれたと思う。ドラマの魅力がいったいどこから来るのか不思議でしたが鮮やかに切りとり示してくれたように感じた、短いコメントですが忘れられないものになりそう。振り返れば70年代前後野良猫ロックシリーズの奇妙な「魅力と実感」にとまどっていたとき「世界」ということばで本質をすくいあげたのが渡辺武信の「ワイルドジャンボ」の評論だった。 <5月10日>
▽日曜日の朝、ラジオから昭和50年代の歌謡曲が流れてきて阿久悠さんの「人々の幸せがカタログ化されてきた、そこから外れると幸せではないと感じるようになった。そこが問題だ」という趣旨のことばが耳に残った(番組はNHK/FM ミュージックメモリー 日曜日午前8時ー9時)。うーむ、上手いこと云うな。そういえば新刊書店の夥しい雑誌はカタログに近いものが多い、靴だ時計だこだわりの味の店だ、ホントは教えたくない旅の穴場だ宿だ・・・もう数えきれないほど。アイドルの写真集もカタログの変型だし婦人雑誌がやたらぶ厚いのもカタログ化のせいかな。最新流行のモノに敏感でなくてどうする、というのも分かりますがホットイテもらいたい、という気分もあるしね。かって時代の半歩先を捉えていた雑誌がモノやサーヴィスにばかり目を向けているように思われて・・・残念。 <5月8日>
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2007年5月