▽高峰は木下・成瀬監督を例に引きながら演出のタイプはそれぞれ違っても共通していたことはオーバーな「さも」(の演技)が嫌いで自然な演技が大切なこと、「熱演」だと評されて喜んでいる役者には、「画面からハミ出している」ということで誉められたことではない、さらに「張り切る」「頑張る」ということばは下品で私は大嫌いだと「忍ばずの女」(52−53ページ)で書いている。明快そのものです。安野も映画や芝居で「演技しています」とやられると目をそむけたくなる「普通にやったらいいのに」と話し、現代建築にもこの手の奇妙さがあると云う。佐藤は安野光雅美術館が出来た津和野の町を歩いてみて「町全体の腰がきちんと、座っている感じがし」た(89ページ)と語り、「腰」なんてことばをここで使っている、高峰もまた演技と腰について記している。
普通ということばは凡庸で可もなく不可もなく際立ったものがないというレッテルを貼られがちであまりプラスの方向で評価されていないように見受けられる。しかしおふたりの会話を追っていくと自分の眼でものを見ることと「普通」はしっかり結びついている。情報が多いとあの手この手を小器用に知ってしまう、こうやれば受けるとか流行りはこうだから乗り遅れるなとか言って同じ方向を見る、知識のある評論家は画家の系譜や美術史ばかり解説してものを見ない ─安野は「評論家で目の止まっている人はわりあい多いと思います」(102ページ)とまで批評している─ 自分の考えで生きていない、自分の目ではなくて情報でものを見ているだけではないかと手きびしい。
「普通」でい続けることって案外大変なんだ、そうすると「普通」とは何かと問いたくなる。石垣りんの「ユーモアの鎖国」(ちくま文庫)にある天野祐吉の鋭い解説、その冒頭を引いておきたい。「この世の中に、ふつうの人なんていない。自分はふつうの人だと思っている人は多いけれど、みんなどこかで、ふつうの何かを失っている。」石垣りんは、まさにそんな「ふつうの人」なのだと。
「<人の素>みたいなものを、色づけもせず、変形もせず、いきいきと持ちつづけている人」 ─それが天野の捉えた「普通」。 続 <3月22日>
2010年3月
高峰秀子の桜は満開
確定申告も終わってヤレヤレ、肩の荷を下ろしたところで本屋でものぞいてみるかと横浜のU書店へ。映画のコーナーに近づいてみると日経新聞(朝刊 2/28)の「高峰秀子の流儀」(以下、流儀と略す)の紹介記事が掲げてあったのでホウッもう・・・と読み終わって、売れてるのかなと奥付けを見たら何と4刷だって、1月25日の発行だからまだ一月ちょっとだぜ。驚いたなぁ。ちなみに横浜市内の(市立)図書館ではこの本は全館貸し出し中、すでに予約が90人近くも入っている。皆さん待ってたんだろうか、高峰秀子を。デビュー作の「巴里ひとりある記」も刊行1カ月で版を重ねている、もちろん発行部数も時代も違うから比較はあまり意味はないけれどとにかく凄い勢い。「流儀」は非常にくだいた書き方でスイスイ読めるけれど苦い本だから受け入れられるのかなと気になっていただけに嬉しいことです。予定より刊行が遅れたから気をもんだしね。斎藤の根っこにあるのは今風の日本人(というからには当サイト自身も入るわけですが)に鋭く衝きつけてくる批評の目、だから甘くはない。まったく自省を込めて云うのですが「倚りかからず」(茨木のり子)の正反対だもんな、権威や市場価値、流行りに倚りかかり<自分の眼>をいとも簡単に明け渡し「身の丈にあった暮らし」を踏み外す。損得勘定とデータばかりにピリピリして我ながらセコイよなぁと思いながらも今日のところは得したしまあいいかの繰り返し。たぶん読者もこの日本、そして日本の人に自分自身にほとほとウンザリしているというのが本当のところではなかろうか。そこにひとすじの光が射してきた・・・「流儀」がそこにいる。
当サイトにとって高峰─斎藤ラインは八神純子のNATURALLYの歌詞(山川啓介)をなぞれば「都会で見える星座の名前教えてくれた」人であり、「時代の渦へと知らずに落ちていく」<わたし>を振返させてくれる。そして明日ばかりではなく「昨日を見つめて」みることに気づかせてくれる。それらは14歳の高峰が「冬の朝っていい匂いがするね」(「わたしの渡世日記」「瓶の中」)に「!」を受けたようにささやかで平凡な風景や暮らし、人の断面に不意打ちをくらわす何かを伝えてくれているのではなかろうか。
加えてトドメの一冊、キネマ旬報社から「高峰秀子」が刊行される(上旬発売と聞くがもう荷づくり段階か?)。絶版品切れのままの「別冊太陽 女優高峰秀子」(平凡社)のエッセンスを受け継ぎ(一部再録されるとのこと)、高峰自身が出演作品の解説をするという夢のような企画。衝撃としか云いようのない「かあちゃんの卵焼き」は再録されるのだろうか。斎藤の「震える弱いアンテナ」が高峰秀子を捉えた、その核になり起点となるエッセイだから眠ったままでは惜しい。それにしても斎藤(明美)印がポンと刻印された本になるようで待ち遠しいことだ。「冬の朝っていい匂いがするね」と同じセンスが斎藤の本にもある(と思う)。その匂いを高峰といっしょに(あるいはバトンを受けつぎながら)追い続けている、そんな印象だ。この方がいなかったら高峰秀子は「回想の人」(「つづりかた巴里」)となり時代の後景に退き、そのまま遠のいていったかもしれない。
春が、高峰秀子が少しずつ近づいてくる、再生の春を迎える。満開の花ビラか。 <3月4日>
追記 横浜駅地下の商店街の書店ではポリシートに包まれて「高峰秀子」が平積みされてました、「かあちゃんの卵焼き」はもちろんのこと続編まで付いてたぞ。このヴォリュームでこの値段(2,520円)なら納得です。 <3月10日>
▽今、発売中の「婦人画報」4月号の「高峰秀子との仕事」(斎藤明美)で高峰の以前の記事が再録されている。人に贈りたい本の一つとして『ねがいは「普通」』をあげているではないか、おっという驚きとこの方は読書家だなと心底思った。当サイトがこの本に出会ったのは昨年の7月(「備忘録」2009年7月参照)、ちょうど「最後の日本人」を買い求めた日だったからよく覚えている。つんのめるように読みました、借りた本だから付箋を貼りながら読み進めていくと付箋だらけになってしまい途中で全ページ付箋を貼るのと変わらんぞとあきれたことも・・・。高峰お気に入りの本だとは知りませんでしたが当サイトがおぼろげながら<この辺りだな、大切なもののありか>はとうろついていたところと高峰が見据えている核心がそれほどズレてはいないことに嬉しくもありまた疑問も沸いてきた。
高峰はどうして「普通」のなかにひそむものをこれほど慈しみ大事にするのか、それはどこから掴んだものなのか、あれほどの知名度と実力を得ながら「普通」を失いたくないと願うのはまったく訳わからん。高峰なら「普通」なんてポイと捨ててしまってメイドを何人も雇い豪邸に住み、付き人を引き連れてあちこち社交場へ顔を出しマスコミにホイホイ愛想を振りまき、あるいは先生ひとつどうですかと政治団体あたりから出馬要請に乗ったり(まさかネ、でもこのまさかはそれほど突飛なことではない)、普通からどんどん遠ざかり唯我独尊と酒池肉林の暮らしも夢ではなかった・・・そうしなかった高峰だから余計な詮索なのですが、どうしてこんなに高みにつかず媚びないでひっそりと普通を願うのか、考えれば考えるほど不思議な人だ。現実にはいくらか傾斜してしまうのがそれこそ普通だろう。
彫刻家佐藤忠良と画家の安野光雅が語りあう『ねがいは「普通」』はひけらかしがなく揉み手をしがちな自分を<まだダメだ本質をえぐりだしていない>と叱咤し、自分の目でものを見ることに懸命になり、まったく誰もがこの本を読めばここまでいかなくてもどこかそこへ連なる端のそのまた端の方でもいいからぶら下がっていたいな、と感じるのではなかろうか。泣きたくなるような本ですね、その意味では。
本の中で佐藤は80歳を過ぎ安野も70歳を通り越した爺さんだぜ、高峰だってそれに近いところじゃないか。爺さん婆さんがよくもまあ背すじをちゃんと伸ばして自然らしくありたいと勉強して謙虚にそして質素に、気持ちを解放していられるものだ。高峰はおふたりの品の良さを指摘しながら「私も同じ思いで女優業をやりました」と記している。そういえば高峰の「忍ばずの女」は『ねがいは「普通」』とピッタリ重なるところがある。演技の向こうに見つめているものが佐藤、そして安野と同じなのだ。 続 <3月12日>