ババア、飯だ! ああ「Q10」
木皿ドラマが走っている、いや疾走しているのか、12月11日放送のTVドラマ「Q10」最終回はハラハラドキドキの連続で息もつかせない、時間を駆け抜け彼方から今を見つめ予断を許さない展開に呆然としました。緊張の糸がポッと緩んだのが「ババア、飯だ!」の叫び声でした。小川先生の人生にとっては歴史的瞬間だもんね。
私たちが木皿ドラマを待っているのはあの台詞なんでしょうかね、何ともセツナイような懐かしいような。
民子が病室で久保に語りかけるシーンなんて忘れられない場面になりそうだ、痛みをいっぱい抱え込んでいる人たちのささやかな祈りのことばですね、圧倒されました。
「母さんを成立させているもの全部をオレは愛する」と言い切った父さん、災難がなくてまぁソコソコに食べていければいいという小川先生に「それって、世界平和(の思想)ですよ。」と包みこんだ柳教授(柳教授はいい役でしたね、最高!)。
リセットの直前にQ10が言った「ヘイタ、マタ明日」のけなげさ。この場面で鼻の奥がツンときた方も多いんじゃないでしょうか。書き出したらキリがありませんがこんなことばを聞きたかった、待っていたんだ。借り物の台詞や上っ面のことばじゃなくてね。
そして登場人物、いつもそうですが木皿ドラマの人たちはすぐ隣にいる人たちが出てくる、ちょっと怪しくて可愛げがあるんだな、みんな。鉄塔が聳え立つその大地に<俺たちの街>があって何かを探しながら暮らしている、それが平太やQ10たちが生きている場所。
まだQ10の全部を語るには時間が必要ですが、生まれたての赤ん坊が何かをたぐりよせようと小さな手で空をつかむ、そんな仕草を見たような気持になりましたね。ことばが素通りしないでコツンコツンと胸を叩いてくる、響いてくるのは生れたてのことばだから。ホカホカだね。だから世界とタッチしたゾという実感が残る。
今、世界はセコクて辛くて危険で退屈でコマギレな情報の寄せ集め(のように見える)、そうだとしても流れているものがある。時間だ。本田美奈子が「時」をテーマにした歌詞を岩谷時子に依頼したあの「時」。
時は移ろう、私たちはその流れの中でしか生きられない、木皿ドラマの最終回がいつも痛みとせつなさを伴うのはたぶん時間の流れのなかで生きている一瞬を切り取っているからではなかろうか。
このドラマからたくさんの断片をもらいました、これから見直す度に、そして何十年後の未来にも「Q10」というドラマがあったなぁ、あの世界懐かしいなぁという気持が胸に残りそうだな。それで良し。
「セカイはウマれました。」
備考 シナリオ「Q10」は1話から3話まで「ドラマ」12月号(映人社)に作者ノートと合わせて掲載されている、全部のシナリオ「Q10」は単行本になる予定はないのでしょうか、本にしてほしい、是非に。「時間」については「二度寝で番茶」(木皿泉 双葉社)の「時の過ぎゆくままに」と特別コラボレーションの頁「喫茶『思いつき』」を参照してください。
  <12月14日>

△ 注目の復刊書
谷啓の本で「ふたつの月」というエッセイ風のものがありますが、これがなかなかお目にかからなくて当サイトも一度販売したきりで、それ以後消えてしまった。確か最近小林信彦の週刊文春の連載でもこの本に触れていました。読んでしまえばどうってことのない身辺雑記ですが人柄がにじみでた本だから入手できなくなると妙に気になるわけです。
その「ふたつの月」がひっそり(という感じで)復刊されています。日之出出版から1,020円という安さ。古書で探すとしたら均一本あたりでまぎれ込んでいる(可能性は極めて低い)ものを漁るか芸能本に熱心な古本屋に頼んでおくしかないと思いますが本じたいが無いんだから値段はどうなるか高値になっても不思議ではないと思いますね。売りたくない本は超高〜い値段をつけたりしますから。
・・・というわけでおすすめの一冊です。まったく新刊書店の棚から消えるとこういう本は売り切れ御免でもう一回復刊せよと騒いでもどうにもなりません。  <12月26日>

最新情報に戻る


2010年12月

△ 注目の新刊書 「二度寝で番茶」木皿泉 双葉社 1,575円
この本がでたからには素通りできない、木皿ドラマに再会できて喝采を叫んだのはついこの前でしたが同じ季節に本まででていたとは!
図書館の検索で知ったのですが驚いたことに予約件数が40数名も登録されているではないか。木皿泉にはコアなファンがいるだろうから当然なんでしょうが、嬉しいぞ。
木皿ドラマに救われたという方は多いんじゃないだろうか。そこに自分の居場所があるとか声が届いてくるとか。確かにドラマを見ているとどこかでこんな人たちと笑いあった日々があったような懐かしさを感じさせる。せつないような幸せな時間。私たちのドラマには余分なものが多いと話していますが普通の暮らしって余分なことの詰め合わせみたいなもの。しかし、どうでもいいような地味な日常がどうしてドラマのせりふやしぐさであんなに刺激的で魅力的になるのか。よく言われる木皿マジックというのはこの辺りのことを指しているんだろうか。
芽がでて実になり花になる、まだ未消化でふわふわして捉えにくいものを「二度寝で番茶」は生のことばで語ってくれる、これでは面白くないわけがない。
当サイトが好きなのは例えば「いつの間にか何でもない普通の人が一番傷つくという時代になってしまった。」(128ページ)という水平的な感度。概念で語らないで「普通」というのをこう切り取る。<普通というのはイメージしにくいけれど泣いたり怒ったりしても帰っていける家があるようなもの>。「ただいまぁ」と帰ったらあったかい湯気のでたご飯でオカエリと迎えてくれる、だから「人はそんなものでつなぎとめることができるんだよ。お前のお母さんがしてきたことだよ。」(「Q10」の校長先生のせりふ)につながるわけですね。


そしてもう一つ、この本は自在に自分だけの補助線を引っ張って好きな場面や記憶へつなげていけて、いわば<私の歴史>に重なるように読むことができる。ふたりの木皿が話すことばはよそゆきのそれではなくて同じ時代に同じ空気を呼吸している「大福さん」と「かっぱさん」、会話を追っていくといつのまにか読者である私も末席に座って番茶をいただきながらフムフムと話の輪に加わっている。世間も人とのつきあいもご近所さんも家族も私からは遠い存在だったのに世界が少し近づいてくる、再生への光すらほんのりと見えてくる。情報やカタログや世間や思い込みで私たちは随分がんじがらめになって自分をワケのわからないところに追い込んでいるんじゃなかろうか。何もかもクリアにしないで「・・・実も蓋もないことは、湯気の向こうにぼやかしておく方がいいのです。」「夕ご飯の湯気のほかほかした湯気みたいに」(148−149ページ)曖昧にしておくと成立するものがあっていいということばなど、肩の力がフッとぬけて楽になります。若い人も老人もそれぞれの立場で想像力を掻き立ててくれる本、そう当サイトは受けとめています。
ひとつひとつのことばが全体重をのせて語られているから生半可なことで紹介できるものでも批評できるものでもないことに気づかされる。幾層にも年輪を重ねて出来た巨木をどう眺めればよいのか、とりあえずはいい木だなぁと目を細めるだけで良しとしよう。 <12月1日>
当サイトが引いた補助線をリンクしておきます。ドドーンと打ちあげて・・・。乗れる方はオモカゲというのもおすすめです。
追記 リンク先が突如消滅してしまいましたのでこちらも削除しました、残念。